【警鐘】『総合診療科』を逃げ場にしていませんか? 進路が決まらない研修医について

この記事は、2022年11月10日に修正しました。

もくじ

※本稿の論旨は、すべて筆者個人の見解を基に記述しています。もし不快になられた方には心よりお詫びを申し上げます。ただ、多くの若手医師をみていく中で、残念なカタチになってしまうケースも少なくなかったのです。彼らをなんとかできなかったか、そんな思いでこの記事を作りました。

Ⅰ. はじめに ~「二兎を追うもの一兎も得ず」~

多くの研修医は、“なんでもできるお医者さん“を目指します。

オールラウンダー型のドクターは、一般人の視聴するドラマや漫画でも人気の医師像ですよね。

こうした“憧れ”を抱くことは悪いことではありません。

ですが、

「二兎を追うもの一兎も得ず」

という言葉のとおり、いろいろと手を伸ばした挙げ句、得意分野が定まらずに中途半端な臨床力しか持ち得ていない・・・という方はいないでしょうか?

かくいう私も、その一人です。

「先生の専門は、循環器のなかでもどれですか? 虚血ですか? 不整脈ですか? 心不全ですか?」

と問われるたびに、いつも返答に困ってしまうのです。

PCIやペースメーカ、ICDの植え込み手術などの専門治療を行う傍ら、脱臼を整復したり、ルンバールをやったり・・・。

オールラウンダー型のプライマリケア医を目指して格好をつけてはいますが、いつも心のどこかで、足元が不安定な気持ちを抱いています。

誰でもできることをやってみせたくらいで、偉くもなんともないのです。

(患者さんに恩恵を与えられればそれで満足するべきなのでしょうが・・・。)

ですから、この章は進路に悩む研修医を対象に書いていますが、私個人への反省も含めたアドバイスだと思って読んでいただきたいのです。


Ⅱ. “プライマリケア”が逃げ場になっていないか?

本章では、進路を決めかねた研修医たちが、どういう視点で総合内科を選ぶのか、その実態にせまってみます。

-1. 総合診療科はもっとも勉強が大変な診療科

大半の初期研修医は、義務教育の二年目が終盤にさしかかるあたりに、自分の専門を決定しなければなりません。

そこで発生するのが、―この章のテーマですが―毎年必ず存在する“どのスペシャリスト科にも行けずにうろうろしてしまう一部の研修医たち”です。

読者の中には不本意に感じてしまう方もおられるかもしれませんが、進路を決められない重圧にさらされる研修医の中には、“なんとなく総合診療科や病院総合医に行き着く”・・・という方が多い印象があります。

さらに私の偏見をまじえて言えば、“なんとなく”という理由でプライマリケアへの道を選ぶレジデントには、スペシャリスト科の厳しい指導から逃れたいという惰弱な側面が散見される気がします。
(もちろん、確固たる理念のもとに総合診療科でプライマリケアを学びたい、という人はちがいます。)

本来の「総合診療科」は、“深く広く“医療知識をおさえ、診断学のエキスパートたる存在です。

よって、なにから勉強したらいいのかわかりにくく、一人前に成長するのにもっとも難儀する診療科ではないでしょうか。

それに、シーンによって在宅診療医、病院総合医などの様々な顔を使い分けていかねばなりません。
地域の医療支援サービス(介護支援サービスも)に精通しつつ、病院総合医であれば看護師などが病棟業務をしやすくなるようフロアマネジメントにつとめなければなりません。

本心ではスペシャリスト科の勉強から逃れたかっただけ・・・という人にとって、プライマリケアは決して楽な道ではなく、ましてや逃げ場になるなどもってのほかなのです。

-2. なぜ、「総合診療科」や「プライマリケア」が逃げ場の温床になりやすいのか

批判を覚悟で手厳しい内容を前述しましたが、進路に悩み、うろうろしてしまう人は、なぜ”総合診療科”や”病院総合医””プライマリケア”をラクそうだとみるのでしょうか。

ひきつづき、筆者個人の考えを述べます。

まず、すべての研修医は臨床研修制度のあいだ、各診療科―臓器別のスペシャリスト科―に配属されます。

プライマリケアの実践を研修制度の枠内で体験するには、救急当直の場面がもっとも多かろうと思われますが、そこで研修医たちが目の当たりにするのが、

スペシャリストが片手間で専門外の業務をこなしている。しかも煩わしそうに―

という実態です。

ジェネラリストが豊富で、総合診療科が確立した病院・・・というのは、まだまだ少数派でしょう。

おそらく、当番で夜間当直や時間外診療、もしくは主治医が手を離せないときの臨時対応をしている病院が大半ではないでしょうか。
研修医たちは、二年間もの長い間、このスペシャリスト中心の世界に染められていくのです。

かつてオールラウンダーを夢見ていた研修医たちは、二年後にはいささかスレてきて、

「医師は、基本的にどこかのスペシャリスト科に所属するのが一般的」

という文化に慣らされるのと同時に、

「プライマリケアとか病院総合医なんて、スペシャリストの片手間でそこそこ成り立つもの」

と認識を持つように至るのです。

こうした一般認識については、学会関係者が異を唱えておりますが、議論の内容如何にかかわらず、2018年度の専攻医登録において、約7800人の希望者のうち、総合診療医希望者がわずか150人程度しかいなかった、という事実が、上記実態のなによりの証左ではないかと思うのです。

問題はこの先にあります。

私は、本来の「総合診療科」や「プライマリケア」は勉強がたいへん難しいと前述しました。

ですが、

「プライマリケアとは、スペシャリスト科が片手間で行って足りるもの」

という認識は、

「片手間でラクそうだ」

というイメージに変化していきます。

しかも、新米ドクターが陥りやすい、

「いろいろ体を動かす満足感に浸って終わり」

という”奇妙な達成感”についても注意しなければなりません。

研修医がプライマリケアを実践する場は、救急外来が主戦場になるでしょう。

急患対応は慣れと反射神経のみで、ある程度のレベルまではこなせるようになっていきますが、誰でもできる程度の応急処置に慢心し、“ふり返り”の復習を怠っている方はいないでしょうか。

「やりっぱなしにしておきつつ、手に負えない症例に遭遇したら専門科に丸投げ・・・。しかも、当の本人は汗をかいて仕事をやり遂げた達成感に浸っている」

たしかに、この程度のうわべだけの医療で済むならば、充足感は得られるでしょうし、なによりラクそうですね。

医師としてのスキル向上はまったく望めませんが・・・・・・。

こうして存在意義を歪められた”プライマリケア”や”ジェネラリスト”、”総合診療医”、”病院総合医”は、進路を決められないレジデントの逃げ場の温床になりやすいのです。


Ⅲ. 本来のプライマリケアについて

あらためて、プライマリケアの本質的な役割を考えてみたいと思います。

-1. 全人的医療とは

本来のプライマリケアとは、手技的な意味でのオールラウンダーとイコールではありません。

個々の患者の背景に合わせ、

・経済状況

・行政上の制度の適応

・地域社会のサポート

といった複合的な視点からの全人的医療を提供する行為全般を指す言葉です。

ときには、あえてガイドラインから逸脱した方針を選ぶ場合もあります。

ところで、“全人的医療”とはなんなのでしょう?

たとえば、胸痛症例を精査するにあたり、循環器内科は自分の疾患の関与が無いと知るや、「当科的に問題はありません」で終診となりますが、ジェネラリストは、さらに他の原因検索を進めていきます。

“診療科にとっての解決”ではなく、“その患者さんにとっての解決”を目指すのが全人的医療なのです。

ほかにも、老年医療を提供するにあたり、

「一般的な診療指針は知っているけど、あえて別の治療方針をとらざるをえない症例なのだ」

という場合や、ポリファーマシー症例の減薬を迫られるシーンもあるでしょう。

-2. プライマリケアの提供者は誰が担うのか?

では、現在の本邦において、そのようなプライマリケアがどの程度提供されているのでしょうか?

そして、そのプライマリケアの担い手とは、誰なのでしょうか?

「プライマリケア医は、深く広く勉強しなければならない」

と前述しましたが、惰性で総合診療科を選んでしまうレジデントが、十分なアセスメントと治療を施すことができるのでしょうか。

さきほどの減薬の例でいえば、スペシャリストがガラス細工のように調整したレシピに対して、あまり深い考えも持たずに、うかつに減薬をしてしまう、という場面に遭遇したことはなかったでしょうか。

(もちろん、きちんと勉強したうえでの判断ならば非は問われないと思いますし、そもそもガラス細工のようなレシピならばスペシャリストが慢性期管理するでしょうが。)

真剣に「ジェラリスト」を目指している医師は例外ですが、逃げ場として総合診療科に籍をおこうとされる研修医がいたとするならば、声を大にしてその選択はやめるようにお伝えしたいと思います。


Ⅳ. これからの「現実的な総合診療科の在り方」とは

「総合診療はかくあるべき」という理想的な内容の記述を繰り返してきましたが、現実的に総合診療科に求められているものとの齟齬はないのでしょうか。

もっとも現実的と思われる「新専門医制度での総合診療科の位置づけ」という視点で考えてみます。

-1. スペシャリストありきのジェネラリスト・・・の制度?

ここまで「ジェネラリストには幅広い勉強が必須である」と書いてきました。

ですが、普通に考えれば、“深く広くたえまなく“内科全領域を勉強することは不可能です。

不可能だからこそ、医療は各スペシャリストの分野に細分化していったのです。

その時代の流れに逆行して、新専門医制度の第19番目の専攻科として、“総合診療科”が加わった意味は、いまだ明解になっていません。

ただ、新制度提唱者たちの様々な意見を集めてみると、

「スペシャリストたちが自分の専門領域に専念できるように」

というのが総合診療科や病院総合医の存在意義とされているようです。

言い換えれば、スペシャリストたちの診療の適応外を担うのが目的ということです。

つまり、

●各科の専門診療の適応外となった低ADL症例
●診断不明で、各診療科が主科になりたがらない症例
●救急当番

が、総合診療科の現実的な守備範囲になるでしょう。

こうした患者群に対して在宅でアプローチしたり、病院総合医としてアプローチしたりしていくのが、総合診療科に求められる役割といえそうです。

ただ、一症例につき、多彩な合併症を有していることが多いために、「どこからどこまでがスペシャリストの守備範囲で、どこからがジェネラリストの守備範囲なのか」については、医師間でよく相談しなければなりません。

-2. “スペシャリストにとっての便利屋”という認識が常態化すると

多彩な合併症を有した症例に対し、専門診療科と総合内科が兼科となった場合、「スペシャリストが専門治療に専念できるようにする」のが、新制度での総合診療科組み入れの主旨のようです。

よって、スペシャリスト側が一方的に守備範囲の線引きを決めるのがスジということになります。

あまりよい表現ではありませんが、新制度での総合診療科の立ち位置とは、“他科にとって都合のいい便利屋“とされるのを公認しているような印象さえあります。

おそらく、この風潮は今後さらに拡大していき、便利屋としてのポジションが常態化されていくと思います。

言い換えれば、本来の総合診療科は、勉強する量も質も非常に膨大なのに、現実は他科がこぼした症例を押し付けられる立場になります。

こうして標準治療から逸脱した症例しか診察しなくなると、

「標準治療を勉強してもしなくても、やることが変わらない」

という状態になるため、

「勉強しなくたっていい」

と致命的なモチベーション低下が招かれる懸念があります(極論ですが)。

すると、本来は標準治療をほどこしたり、専門診療科に紹介すべき症例に出会ったときに、見逃しが生じるようになるのは明白です。

ラクをしようと総合内科に入局した人が、診療の質を高めようという意識すら抱かなくなってしまうと、最終的には

「スペシャリストの便利屋」

どころか、

「スペシャリストの足を引っ張る存在」

になりかねません。

ですから、進路に悩む研修医が、“なんとなく”という理由で総合診療科を選ぶのは、少し待ってほしいと思うのです。


Ⅴ. まとめ

繰り返しになりますが、本来の総合内科はスペシャリストの便利屋でもなければ決してラクな診療科でもありません。

深く広く、診断学のエキスパートとして絶え間ない勉強を続けねばなりませんし、スペシャリストたちがフォローしきれない部分を補完しうる存在なのです。

POINTS!

スペシャリスト科を絞れないからといって、惰性で総合診療科を選ぶことはやめましょう。
本来の総合診療科の役割と、現実に求められている役割にはまだ隔たりがあります。

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